トカゲと私とライオンと。

先日、トマトのわき芽に関するお話をしました。
特に大玉トマトなど、大きさをそろえたいような場合には、

トマトのわき芽を取って、茎が一本すっと立った栽培をすることが多いけれど、

百姓庵では、別のやり方をしているというお話でした。
そして、この取ったわき芽。

実は、土に植えると根を出して、

新たなトマトになるんです。

つまり、この「取ったわき芽」には命が宿っているんですね。

でも、私から生えてくる爪は、取って土に植えても何も生えてきません。

切り離されたトカゲのしっぽも同じです。

しかし、きっと、DNAをそこから採取すれば、クローンを作ることができるのでしょう。

じゃあ、DNAが採取できないようなもの、

例えば、私が吐いた息や、流した涙はどうなのでしょう。

これはさすがに、「私」や「命」とは無関係でしょうか?

でも、この「吐いた息や流した涙」が、まだ体の中にあった時。

このときは、私の一部。

「命」の一部だったはずです。

では、一体、「吐いた息や流した涙」は、いつから「私」や「命」では無くなるのでしょう?

息や涙が体の外に出るときでしょうか?

それとも、体内の物質から、二酸化炭素や水に分解された時でしょうか?

分解がどこまで進んだ時でしょうか?
もし、そこに明確な境界がないのだとしたら、

あるいは、その境界が、人が定義したものであり、

本質的な境界が無いのだとすれば、

「切り離されたトカゲのしっぽ」は、例え切り離されていても、本質的に、元のトカゲの一部であり、

「吐いた息や流した涙」は、例え体から出ていても、本質的に、私の一部である

ということになるのでしょうか?

そうすると、かつての私の涙が、巡り巡って、今、アフリカのライオンの血液かもしれず、

ライオンと私の間に連続性がある、つながりがある、

そういうことにならないでしょうか?

人為的でない境界や区別は、果たして存在するのでしょうか?
それは、何によって担保されているのでしょうか?

私は誰でしょう?でもお話ししたことと似ていますが、

私、という一番身近な存在一つとっても。

トカゲというありふれた生きもの一匹とっても、

よく分かっていないことが、まだまだあるように思えます。

(小松 怜史)

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